昭和44年12月4日   朝の御理解

御理解第百節
「めでためでたの若松様よ・・・」



 最近は家繁盛のことを、いよいよ、考えられておるようですけれども、子孫繁盛ということは、おろそかにされておるような気がいたしますね。
 御理解百節は、これは私共は願って止まないおかげでございますね、子孫繁盛家繁盛を願わないものはない、その為に掛けるというてもいいじゃないでしょうかね、だいたいは。私共、家繁盛、または子孫繁盛のために、いわば、生命を掛けると言うてもいい、または、実際生命を掛けなければならんと思うのです。
 その、お互いが、ただ、目先の楽のことだけを考える、それではね、生命を掛ける、そういう大変なことですから、生命を掛けるということは、掛がいがあるわけですけれども、一生懸命になりがいがある訳ですけれども、一生懸命になりがいがある、そこに、私共ね、考え方の大きな間違いを知らなければ行けんと思います。
 金光大神、そういう子孫繁盛の道を教えると仰る、ですから、この、いうならば、教典のすべてがその為というてもいいと思ですね。
 ここ御理解百節に絞らせていただく、ね、家繁盛、子孫繁盛がなくて、国家の繁栄はありません、ね、家繁盛子孫繁盛が銘々の家の上に頂けてこそ国家の繁栄もあるでございますから、このへんのところを信心で、ね、云うならそういうおかげを頂きたいという願いが切実に持っておりながら、そのことを、いわゆる、楽な方へ楽な方へと、楽な方ばかりに行こうとする、そして、子孫繁盛どころか、子孫が段々こう細うなっていくことを自分たちが作っていっているような状態であります。
 親の代よりも子の代、この代よりも孫の代、繁盛していくとですね、これは実際問題と致してもですね、本当に例えば、兄弟が多いというぐらい肩強い、心強いことはないですね、私は今度、豊美の結婚式であちらの兄弟が多いのに、私のほうは、私と妹だけですからね、兄弟3人おりましたけれども、一人は戦死いたしましたし、それに、妹も婿も亡くなっておりますから、もう結婚式に、例えば、ならおじさんおばさんというてから、(    ?     )、それは、兄弟でございます、叔父でございます、伯母でございますろがずうっと、たくさん並んであちらへこちらへ、その、それが出来る、ね、例えばね、お葬式なんか云っても子供さん3人おるところはもう本当に( ? )、ね、あれがそのまま繁盛の姿です。ね、勿論よくもうしますよね、係りが一人じゃから、なるほど、係りは一人でしょう、一人けれども、5人なら5人子供が孝行してくれる、5人の子供がお父さん、お母さんとこう言うてくれる、もちろん、その、たくさん子供もおって、どうにもこうにも親不孝ばかりするのじゃつまりませんよね、そこでです、そこで信心が必要なのですよ。ね。
 (  ?  )神様のおかげでですね、おかげ、なるほど、まあ、ですから、ここに医学なら医学の上で、ね、例えばあんまり子供がたくさん、いわゆる、子供がどうしても負傷贋造的なな読みものができない、それを、こう(?)にしてりすると、(  ?  )それは、誠実学上から言うてもそうかもしれません、人間のそういう子孫繁盛の道という(?)でもそうかも知れません。けれどもね、立派に大きく育ったがいいが人間じゃないですからね、それこそ(  ?  )でも、ちょっとその精神が良かったら親孝行してくれますよ、またお役に立ちますよ、体格は良い、力は良かつ、頭は良かつで、その頭の良かつで親孝行するもんじゃとまったもんじゃない、それは立派な力強かつでん(  ?  )もうとにかくたまらん、ね。
 今日ね、ある方が、分からん、先生非常に私がその引っかかることがあります、どういうことですか、あの、もう子供さんが二人おられます、これでその、後、今はやりの一主義に至るなんとちいうような事らしいです、ですから、神様に対してご無礼になりよるとじゃないかと思うていつも自分の心をせめられるとこう言うんです、いわゆる、そのへんはね、責められることはない、決してそれは罪悪かのと、いわゆる、罪悪感を感じておる訳ですね、決して罪悪になるのじゃないという(?)を私はコンコンと話させて頂きました、ね。
 けれどもです、例えば、子孫繁盛の道はもとるんです。ね、家内がもう、いつまでも若々しくきれいにしてしとかにゃならんと困る、いわゆる、育てるとも思うてとにかくおおぶつらとこういう、大変だとこう言う、ね、もう本当に楽をしようと、楽をしよう、楽をしようと言う気でです、子孫繁盛いくら願ったって駄目です。ね、楽をしようと思うな、させて頂けという、いわゆる、御教えなんかはですね、ここに、その事に(  ?  )あるような気が致します。楽はせんぞと言う気になら、ね、そういう気持ちで、なら子供を( ? )させて頂いときゃ、その子供が楽はすると思わんけど、させてくれる。ね。 本当に、いわば、国家繁栄のその一部に繋がることだろう、ね。そういう例えば、家繁盛の道、ね、いかに家が( ? )の繁盛しとって、子孫が繁盛しなかったらね、つまりませんよ、家が繁盛して大変なら財産がでけておるです、ね、その財産を別けてやるものがいなかったらこんなつまらんことはないですよ。私は家繁盛にだけ焦点をおいて子孫繁盛がおろそかになっとりゃせんだろうかと思う。ね。
 それはもう、感ながらな事ですからね、私共は7人の、いわば、今の時代に人は笑います、7人も、けれども、子供の一人一人がお役にたってくれる事に驚きますよ。
 昨日、親教会の御大祭に( ? )、ね、もう2,3日前からずうっと御用がありよりますが、愛子と光昭が行ってくれますから、もう本当なら私は( ? )それこそ、義理人情も勤めても、もし子供達(  ?  )するなら、私は例えば、お広前をほうからかして、また、いわゆる体に(   ?   ) いかにゃいけません、けれども、よーうと二人も行ってくれますから、ね、親先生、若先生で( ? )してくれとっても、愛子が今まで頂きよった豊美の御用をちゃんとやってくれますし、若先生が頂きよった御用は光昭がちゃんとやってくれますし、もう本当に助かります。
 例えば、楽の方は愛子がやってくれます、私の代わりは若先生がやってくれます、若先生の補佐を光昭が段々できるようになってまいりました、ね、若先生が青年会を(  ?  )の教導に立ってくれますと、光昭は少年少女会の方をばっちり受けていってくれてます。神様そういうことの為にこういうおかげを下さってあっとるんだろうと思うぐらい、それがどうでしょう(   ?  )やめとったら、ね、もう本当にさあー、その、豊美に家を任せたら(  ?  )ただ困る、ちゃんと神様のご計画の中にあーやって、こうやってあるのだから、なるほど、そこは育てるときは大変だと、そこん所に楽はせんぞという信心姿勢をもってしなければなりません。ね。
 子供に一人一人に親の信心が、ね、いわずかとらずの中にちゃんと染み込んで行くおかげを親自身が頂いとかなけばなりません、五人の子供がおったばってん、五人( ? )頭はいい、健康である、ばってん親不孝をする、ね、だから、子供も(    ?    )勝手なんてんという人もありますけれども、それは信心の、いわゆる、(  ?  )事なのです。ね、その代わりにです、(    ?    )子供にちゃーんと信心をこうやって頂かせる、信心を、いわば、信心の継承を願わせてもらい、それを、ね、自分が頂いておるものを渡しておく、そういう機会に恵まれましてもね、恵まれましても、その機会を、いわゆる、つくりきらんと、いわゆる、生かしきらんと。
 例えば、もう私共の子供達の場合でもですね、一人一人に生き生きとした信心をです、自分が見せておくだけではなくて、それを本人にも与えておく、私共の子供の、もうどれもこれも、それこそ、生き生きとした体験を子供の頃からもっております。豊美でも勝彦でも光昭でも、ね、その、やはりそういうチャンスが与えられとるです、親の信心を見せておくだけではなくてですね、そういう時にです、親は信心でない考え方をしたり、その、せっかくチャンスを逃がす事ではつまらんです。
 今、私共の参番目の息子幹三郎、高校いきよりますとが、( ? )顔がこんなに腫れ、もうどんなでしょうかね、もう堀り横に(?)片一歩がこう腫れとる、もうずいぶん長い、昨日は、6日、とにかく気分が悪かったでしょうね、とうとう学校を休んでしまった、でいろいろ急に少し楽になったといわれるから、私幹三郎に申しました、もう幹三郎高校の高校生と、ね、(  ?   )ね、(  ?  )にお話を聞けばお話も分かるもう年頃だと、いうならばね、あんたがそのこの病気と言うか、そのことはね、これはあなたのこれからの財産になることだと私、ね、医者に見せたらどういう風いうか分からん、( ? )にでもいったらどういうような病気か知れぬ、それは、医者にもかからんから分からんけれども、しかし、ただの、ただの普通の(   ?   )ことじゃない、もほー、大変長いことですから、ね、こう刺すってあげますとね、ガチガチしてます、それでもまあ、学校にもの別にそう( ? )時々痛みがね、気分が悪かと、それは気分が悪いでしょう、片一歩あげん腫れてますから、そうだから、困ったことじゃないのです、それを困ったことをしない、それはあなたの財産になるんじゃと私は、ね、あー言う時に、僕はあー言う信心をさせて頂いて、あのようにお父さんからお取次ぎを願ってこうしておかげを受けたということになればね、あんたのもう一生涯の財産になるんだと、医者にかかるなとか、かかれとか、そんなことは全然問題じゃない、いう、言おうとしない、ね、例えば、そういう素晴らしいチャンスに恵まれておってもです、これは大変、早う医者に行って手術して、(?)こう思ったらですね、それがもうあんたが良くなったというだけなんですよ、ね、私自身もそうだから、私自身が思うておる事は困った事ではないのだと、ね、もう神様が、いうならば、もう財産別けをしてくだっておるように素晴らしいなんです、ね、その事を通して生きた神様が分かり、その事を通して信心、いわゆる、信心の、から生まれてくる確信と言ったようなものが頂けたらです、これはもうなんの財産よりも、どういうような(  ?   )大変なことなん、財産なのです、そういうようなね、やはり、財産別けというか、そういうようなチャンスがいつもある訳です。ね。
 例えば、豊美達もそうです、ね、あのようなしつけして頂いて、間違いのない( ? )、ね、たくさんな餞(はなむけ)を頂いておりましたから、もう親心としてそれは、あちらにも持たせてやろうとこう、ところが、豊美がそれをどう考えとったかというと、いくら頂いてもこれはお供えをして、これからの事を願(ねご)うて行くという気持ちで腹を決めとるです。(笑い)一瞬でも(   ?    )、あちらへ行ったら、それこそ、千円の金でもたいして役に立つ事は私は知っておりますから、ね、ですから、持たせてやろうといいや、いらん、いらんじゃない、それはお供えさせて頂き、というんですね、そういような信心をちゃーんと私自身が教えておる子供の頃から、ね、お父さんに言われたけんそうするのじゃないです、そのへんのおかげを頂いておること、もうそれこそ、20万、30万のことじゃなか、大変な財産をもっていくようなもんです、ね、まあ、結果においてはそれはどうでも持たせてやると信徒会長の意見でもたせてやりました、けれども、ならアンタがいらんならイランでもいいから、まあ、持って言って、まあ、あちらのおじいちゃまにでも差し上げなさいち言うて、その、いう、丁度、言うてくれましたから、まあ、そうしましたけれども、(  ?  )から、自分で、だからもうこれは話したもの同じ事ですよね、自分自身が決めたそこで、私は本当に嬉しいと思います、ね、私はね、子供をが次々と生まれてくる育てると言う事も大事だけれどもね、信心を飢えつけておく、信心を与えておくという、もうすでにそこに財産別けがでけておるようなもんですからね、もうだいたい言いよったら、ね、問題は信心がね、信心を一人一人に与えていきゃ実に楽なんです、大変なことじゃないって、なら私共の根拠逼迫しておる時代でもです、子供もやはり次々に二年越しにでけております、みんな二つぐ生です私の場合は、ね、それでもやはり、ね、自分が育てたじゃない、神様が育ててくださるんだ、けれどもそこにはです、母親でも父親でもですけれども、楽をしようというような心はみじんも起しとらんもん、これも(         ?           ) 大変だから、自分が育てようと思う、ね、私は子孫繁盛の道と言うのはね、そういような子孫繁盛の道と言うのは、そういうことだと思う。ただ、生みっぱなしじゃいかん、ね、神様が育てて下さるんだけれどもね、そこには(    ?    )ことですけれども、そこに、人ながらが尽くさなければいけん、なるほど、(  ?   )楽は楽でしょう。
 私はここの特に教祖の子孫繁盛の道ということをですね、例えば、教祖がここに歌っておられますようにです、ね、本当に家だけが繁盛して、子孫繁盛がなかったら、もう、もう、こんなつまらんことはないって、ね。
 親教会の場合は、何人ですかね、まあ、お子さんが出来られたのは10何人かでしょう、実際に、亡くなられ、現在おられるとだけでも後7、8名おられるでしょう、ね、男のお子さんは全部お道の教師に(  ?  )頂いておられます、ね、とりわけ、行徳先生なんかはもう、子供の時にはもう本当にやはり親に心配を自分でも言っておられたように、まあ、かけられた、若い時に、けれども、やはりお道の上にあのようにお役にたたられる先生になられて、あのように親孝行の先生が出来られる。
 あの時分にどうでしょうかね、いっちょごしこけとくなら、もうこけられる、もうこけらねきゃなさならん、(笑い)私は立場におられたのが行徳先生あたりじゃかろうかとこう思うんです、ね。一人一人がちゃんとお役に立ってる、がっちり子孫繁盛のおかげを受けて止めておられる訳です。
 だから、ね、子供たくさんつくっ、それこそ、生みを増やせという目的がです、ね、ただ、その、ね、なんというですか、自分の都合の為にだけというんですか、ね、(        ?           )、さぁー生んどけ、さぁー創っとけというような、そういうもんじゃない、ね、子供は我が力でおると思うな、神の恵みの所とこう仰る、それと、お恵みのものをお恵みのものとして受けていくと言う姿勢、ね、。
 これは本当をいうたら子供だけのことだけじゃありますまい、ね、子孫繁盛の道と、それに、同じ目にあった事柄がたくさんありましょう、ね、自分の都合のよかことだけを自分のものにして、都合の悪いのは向こうに押しやろうとする、その都合の悪いという、そこに、いうなら、子孫繁盛的おかげが潜んでおるんだけれども、それを、ね、その人が実をいうたら、人間関係の場合でもそうです、好きな人だけは大事にするだけれども、自分が好かんとはもう全然軽う見たり、付き合おうともしない、もうもしの好かん、その人こそは実をいうたら大変なお役に立ってくれる人を自分から向まで押しやろうとする、自分の都合のよかっつだけは育てる、自分の都合の悪かとはもう(  ?  )していく、これでは、ね、おかげの、いわば、子孫繁盛的おかげに繋がらないのです、自分からたっていくのです。ね。
 子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰る、その道を行じずして子孫繁盛のあるはずはありません、口にだけどうぞ家繁盛、子孫繁盛、そしてから、子供を創られて、子供は(  ?  )していく、そしてから、私子孫繁盛というたって願うもんでしょうが、ね、ですから、そこんところを感ながらお恵をお恵みとして受けて、受けたものを今度は育てていく所に人ながらとでも申します、ね、そこに、楽はせんぞと言う気になって、それを、お育ての親、御用につこうて頂く、子供を育てる御用につこうて頂く、その子供には、もう子供の時からちゃんと財産別けをしておけと、信心の。自分の信心、頂いておる信心をです、ちゃーんと別けてあっておけと、神様がその信心を子供の中にあってお育てを下さる。ね。楽はしようと思うとらんけれども、その子供が楽はさせずにねばおかんという働きをです、神様がさせてくださる、その例を、なら例えば私の例をもって申しました、ね、どうでしょうか、このような教会がでけた、あっちこっちのお付き合いも、私はあれもせにゃん、これもせにゃんなんていうたら、それこそ、大変な事だったろうと思う、けれども、その持ち場立場、自分たちが自覚しておる訳ではないでしょうけれども、ちゃーんと神様がその年代、その時代に応じてです、( ? )つこうてくださる時代、愛子をつこうてっち下さる世界、若先生をフルにつこうて下さる、光昭をつこうて下さる、また、つかれる時に後に、また、幹三郎が、直子が、栄四郎がです、また、そこんところの後を受けてくれるだろうと思いますが、そういうような芽生えがその人たち、一人一人の上にもこう、現れておる、財産別けがいつのまにかでき、信心の財産別けをさせて頂きよる。自分で結構幸せになって行けれる道をです親が、ね、子供に譲(ゆず)っておく。
 最近一番下の栄四郎が何を思うたか知らんですけれど、間食をしないという修行をしよります、ね、ところが、ほんな明くる日、幹三郎がチョコレートをこうこうやってからみんなに持ってきたいだけんで、手をつかめてガブッと食べたっち、(笑い)目の前にこうやって、神様皮肉だという訳ですね、もう俺は絶えんち、わざわざものばいうて、こうこうやってしたけん、もう急にいってからガブッと一口食べて(  ?   )食べてしもうたっちいいよる、だから、僕はもうひと月だから伸ばさせて頂くと言う訳なんですね失敗したから、まあ、それは、絶えもないことでございますけれどもです、ね、しかし、子供心にもそういう信心をもうちゃーんとこう受け継いでいってくれておるということが、出来る、出来んは別として、ね、有り難いとこう思うです。ね。
 ですからね、もう本当に、ね、子供がたくさんおったら大変だなんという、本当に今の若いのは考え方のその、その、(笑い)お粗末なのに、目先だけのことしか考えとらんのに、もう驚くばかりです、これが十年後、二十年後になって見えてくる、ね、戦後私共は、なら戦後できた子供達は、どこの子でも出来る時代だったんですけれども、ね、それを、神様のお恵みとして受けて、おかげでならどの子にでもです、体格が良かちうこともなからなきゃ、頭が良かつも、どっちかちいうのは体格があんなに小さいとばかりですし、ね、( ? )あんまり創るけんで良かつが出来るというかも知れませんね、役のうえでいうたら、であんまりするけんで(  ?  )、頭が悪かと言うかも知れん、けれどもです、ね、問題はね、健康だから、頭がいいからと言うて幸せじゃないのですから、先ほども申しますように、頭の良かつであんた、頭で(   ?   )、健康(  ?    )力があるから、それであんた親をぶん殴るとじゃけんもうたまったもんじゃないでしょうが、ね、そういうことならもたんが(?)、良かったとこう言うことになるのであって、ね、実は決してそういうじゃない、私共は子孫繁盛の道を教えていただいておるから、子孫繁盛の道を行じておるンだという頂き方で頂くならばです、絶対おかげになります、ね、子孫繁盛の道を行じておるんだ、ね、そこでです、いわゆる、自分が育てるんじゃない、神様がお育て下さるんだけれどもです、私共の姿勢としては楽はせんぞと言う気になれ、子供を押す間は、ね、とにかく、楽はせんぞと言うような気持ちがあって初めて楽はせんぞと言う気になりゃ、神様は楽をさせてくださるという次のおかげが受けられる、ね、させてくださるおかげはもうなんともかんとも言えん味わいだと言う事、それを、私は、私の例をもって、今日みなさんに聞いて頂いた訳です、なんとも言えん神様の御節理の中にです、あの子もこの子もあった印に、ちゃ―んとその時、その時の御用を見事に受けて言ってくれるということ、ね、子供の時から財産別けをしておる、信心の財産別けがしてある、ね、せっかくその財産になるような素晴らしいことを、さぁー医者じゃ、薬じゃ、ならあれじゃこれじゃと言うて人間心の方を少しでも早く楽になろうとするそういうことがです、それがおかげにならない元になっとる、私の場合はそういう時に、いつもそれを難儀な事とせずに、それがお前の財産になるのぞという頂き方で子供達に、ね、財産別けをしておる。
 私はね、あの、確信な生活というかね、そういうところがでけて、初めて確信の生活、どのような場合でも驚かんで行く生活、ね、その向こうにう喜びの生活があると思うんです。
 今日、とりわけ、ね、私はこの子孫繁盛ということに焦点をおいてお話をしましたですね。
    どうぞ。


末永静行
2005年6月2日